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輪廻する身にお墓は不要

日本人はどうしても遺骨にこだわります。
パレスチナの土地で遺跡を掘っていたら、人骨が出てきました。
どこの国の人もなにも気にせず、人骨を片づけて発掘を進めていくんですが、日本から出かけて行って発掘に加わっていた五、六人の学生だけ、全員精神状態がおかしくなったというのです。
ユダヤ人たちはなんでもないんです。
これも、遺骨が祀られないと死者が浮かばれないという幻想からくる現象でしょう。
戦地で亡くなった人の遺骨収集団の人だちなども、同じこだわりで戦地に赴いているのだと思います。
遺骨もなにも持ち帰れない場合、戦場の石や土を持って帰ったりするそうですが、日本人は形になったものを死者に見立てて悼むという文化があるのでしょう。
執着を断ち切るというよりは、執着を探して歩いているような感じがしないでもありません。
わたしは、骨なんていうのはカルシウムなんだし、焼いてしまえば炭素なんだから、そんなものにこだわる必要は少しもないと思うのですが、いまだに日本人はそう思えないんですね。
ほんとうにインド人とは対照的です。
とはいえ、インドでも例外はあります。
先ほど、インドではお墓は作らないと言いましたが、聖者の場合は例外なのです。
悟りを開いた聖者は、火葬にしたあと遺骨をお祀りします。
仏舎利」ということばがありますが、これはお釈迦さまの遺骨のことで、お釈迦さまも荼毘に付されて遺骨がお祀りされています。
当然、お墓が作られてそこにお祀りされているわけです。
前にも言ったように、わたしたちは死んで中陰の世界に入り、またこの迷いの世界、仏教では地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天界という六道の世界に生まれ変わり、死に変わりして生存を続けています。
これを輪廻転生というと言いましたが、悟りを開いた人は、その輪廻の輪からはずれて宇宙空間のかなたに飛び出ます。
これを「解脱」というのです。
解脱を果たした人の代表は、やはりお釈迦さまです。
しかし、実はお釈迦さまだけではなく、その弟子であった舎利弗や目連などという人たちも、他人の尊敬を受けるに値する人という意味で「阿羅漢」と呼ばれ、お釈迦さまと同様輪廻の世界から解脱した人とされて、火葬にされてお墓が作られました。
これらの人たちは、解脱して二度とこの世に生まれ変わってこないからお墓を作ってもいいのです。
しかし、わたしたちはこの世で死を迎えても、必ず輪廻します。
そうすると、また生まれ変わるのですから死は永遠の死ではありません。
消滅ではないのですから、お墓を作ったらおかしいのです。
別の生命に生まれ変わっているのに、この墓はなんなのということになってしまう。
それがインド仏教の考え方です。
ところが、日本人は仏教を学びながら、その輪廻という考え方についてはまったく学んでいない。
だから、いまだにまだ「我」というものにこだわり、お墓に執着しているわけです。
しかし、日本にも例外はあります。
浄土真宗を開かれた親鸞聖人は輪廻の真髄を解き明かし、こう述べられています。
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。(『歎異抄』)
つまり、「わたしは自分の父や母のためにお経を読んだことは一度もないんだ」と親鸞聖人はおっしやっているのです。
わたしの父や母というのは、仮にこの世で縁があって父になり母になったわけですが、しかし長い生々流転の輪廻の中において、あらゆる生き物は前世で親子であったかもしれないしきょうだいであったかもしれません。
だから親鸞聖人は、一切の衆生のためにお経を読むことがあっても、今の父母のためだけにお経を読むことはないとおっしやっているのです。
今の父母のためだけにお経を読むなどということは、エゴイズムともいえるものです。
これが仏教のほんとうの認識なんです。今仮に他人であっても、来世で親子になるかもしれません。
ということは、ご先祖さまというのは一切の衆生なんです。
日本人はそのへんがよくわからず、「あなたのご先祖さまを拝みなさい」というわけです。
先ほどの計算を思い出してください。
二十代、三十代さかのぼれば何億人にもなるということでした。
仮に三十代さかのぼり、だいたい九百年から千年くらい前だとすれば、平安時代か鎌倉時代でしょうか。
さて、そのころ何億という人間がいましたか。
いないでしょう。
そうすると考え方は逆なのであって、鎌倉時代にいた一組の両親から何人もの子どもが生まれてきて、今一億を超える人口になっているのです。
つまり、もとを正せば、ご先祖さまは共通だということです。
「あなたのご先祖さま」ではなく、「みんなのご先祖さま」なのです。
しかし、日本人はなかなかその認識を持てず、自分の家のご先祖さまが大事なんだと思い込んでいるのですが、実は、これがほんとうの仏教がいちばん嫌う考えなのです。
自分の両親だけを幸せにする。
あるいは自分の祖父母や曽祖父、わが身のご先祖さまだけは幸せであってほしいなどという拝み方は、インチキ宗教の宣伝する常套手段です。
そこのところに早く気がついてほしいと思います。

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お墓は一家に一基でいい

最近、霊園の分譲チラシが新聞にやたらとはさみ込んであります。
これには現代の家族制度の問題が大きく関係しているのですが、もうひとつ、やはりお墓に対する日本人の執着が事複雑にしているような気がします。
お墓はいまだに家督が継ぐものという形になっており、首都圏に出て仕事をしている次男や三男は、本家のお墓には入れないといって霊園を買わなければならないという強迫観念に取りつかれているようです。
しかし、こういう時代になってお金がない、体は弱る、どうすればいいのか、という相談が増えています。
しかし、何度も繰り返しているように、お墓は宗教とは関係のない死体の処理場なのですから、いくらでも解決法はあるのではないでしょうか。
わたしが考える現実的な解決方法は、今先祖代々の墓というのがありますが、その家系に属する人はみんなそのお墓に入ればいいと思います。
なにも分家だからといって差別する必要はない。
一族郎党みんなで入ればいいんです。
そうすれば、一家系にお墓は一つでいいはずです。
それに、骨壷はやがてバーンと割れる素焼きのものにすべきです。
お墓の地下の骨壷をおさめておくところをカロートといいますが、素焼きの壷ならカロートの中で自然に割れてお骨はあたり一面に散らばり、次第に土に還っていきます。
だから新しい骨壷もまた入れるようになる――実に理想的だと思います。
それなのに、いつまでも骨を残そうとするから問題が複雑になるのです。
私事ですが、お墓や骨にこだわる日本人の一例として、わが家の出来事をご紹介しましょう。
わたしは大阪に生まれましたが、大阪のお寺が空襲で焼け、お墓が火をかぶってしまいました。
そのため、御影石が欠けてボロボロになり、字も読めなくなっていたのです。
そのお寺が、区画整理でわずか二〇〇メートルくらい引っ越すことになりました。
その時、お墓も移転するということで、「墓上げ」といって墓石を取り出し、運ぶ儀式をやるということになりました。
父は戦死していたので、仏事はすべて長男の家の長男であるわたしの仕事だということで、
全部わたしがやらされました。
中学生の時のことです。
わたしは祖母に連れていかれてお墓の石を上げたのですが、もうなにもありませんでした。
土に還ってしまっていたのです。
わたしはお墓の中に入り、そこの土を手ですくってバケツに入れ、新しいお墓に運びました。
祖母は、「よくやった、偉い。気持ち悪かったやろ」と言ってくれましたが、わたしはなにも怖くはありませんでした。
単にカルシウムの染み込んだ土じやないかと思っていたわけです。
そのお墓の移転が終わってから、祖母と曾根崎公設市場に寄って買い物をして帰ることになりました。
その時、市場では標語の募集をしており、わたしが「主婦の味方の曾根崎公設市場」と書いて応募の箱に放り込んでおいたら、鉛筆が1ダースあたったのです。
すると祖母は、「これはご先祖さまのおかげや」と言って喜んでいました。
そんな思い出があります。
そのお墓がまた引っ越すことになりました。
今度は京都の黒谷さんといって、金戒光明寺に移ったのです。
それで墓石を運ぼうとしたら、戦火をくぐってきた御影石は壊れていました。
だから、割れたところをコンクリートでつなぎとめて黒谷さんに持っていきました。
やがて、父の五十回忌をやるということになりました。最近では子どもが親の五十回忌をやるのは珍しくなくなりましたが、昔は珍しかったのです。
ましてや、妻が夫の五十回忌やるんですから、これはめったにないことです。
そこで母は、「お墓を作り替えたい」と言い出しました。
わたしの父親は戦死といっても、シベリアに抑留されて強制労働で戦病死したのです。
だから、骨もなにも日本には帰ってきていません。
そこでわたしは母に言いました。
「なにを言っているんだ。お父ちゃんの骨がここに入っているわけがない。このお墓の中におやじがいるわけないだろう。おばあちゃんやおじいちゃんの骨はあるかもしれないが、それらもぽくがすくい出したら、全部ご先祖さまは土になっていたじゃないか。お墓なんか作り替える必要はない」
母はそんなもんかという顔をしているものですから、わたしは和尚さんのところに行って、
「和尚さん、おやじの五十回忌を迎えるこのお墓は、あと五十年、百年たてば世界大戦の戦火をくぐったお墓として、歴史博物館に収められるかもしれないとおふくろに言っておいてください」と頼んだのです。
すると和尚さんは、
「このお墓は大事な墓ですよ。戦災に遭ったこういうお墓は残しておかないといけない」と母に言ってくれました。
おふくろは「はあはあ」と言って喜んでいましたが、それがおおかたの日本人の感覚でしょう。
人はお墓の下に眠っているわけではありません。
お墓は単なる死体の処理の場所であり、道具なのだと認識することは、無神論者だとして非難されることではないのです。
むしろ、お墓を拝むことより大事なことがあるとわたしは思います。

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